生命保険はじめました
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LCA (Leadership and Corporate Accountability) のコース、前半のまとめとして"What's a Business For? (企業は何のためにあるか?)"というテーマの論文をいくつか読んで議論した。法律家によって書かれた最初の論文、"Our Schizophrenic Conception of the Business Corporation" (William T. Allen, 1992) では、「企業とは何か?」という問いに対して古くからある二つの概念について整理している。私有財産説(Property Conception)は、企業という形態が組合契約に由来することにかんがみ、それは株主の財産に他ならず、株主利益実現の手段として存在するとする。これに対して制度説・公益説(Entity Conception)はより広く、企業の目的は特定の利害関係者の目的を超越した企業それ自体の存続と長期繁栄にあるとする。米国では前者に寄った見方がなされることが多いと思っていたが、敵対的買収が横行した1980年代以降は、判例によって「経営陣は(短期的な)株主利益の最大化のみならず、より長期的な観点から、従業員などの利益も考慮した意思決定を行なう必要がある」とされて、必ずしも株主利益が極端に強調されているわけではないそうだ。 前者の立場を押し進めたものとして、ミルトン・フリードマンによる1970年の論文、"The Social Responsibility of Business is to Increase its Profits" がある。彼によると、企業経営者はオーナーによって雇われた、エージェントに過ぎない。漠然としたsocial responsibilityなる概念に基づいた経営判断を行なうのは、人のカネを使って自分の信念を実現する、横領に他ならない。株主は社会的責任を果たしたいと思うのなら、自分で直接それを行なうのであるし、経営者自身も私的な時間とお金でかかる活動を行なえばよい。環境規制などの社会問題は民主的に選ばれた代議士によって制定された法律に任せ、企業自体はその法律に反しない範囲で、ひたすら利益を生み出すことに集中すべきだ、とする。徹底して free market を信奉する彼の立場からすれば、当然の結論だろう。なぜ、民主的な手続きを経て選ばれたわけでもない企業経営者が、富の再配分についての決定を行なう権利があるといえるのか? これとは真っ向から反する立場で、エンロン・ワールドコムら一連の企業スキャンダルののちに書かれた記事が、"What's a Business For?"(Charles Handy, 2002)。著者はヨーロッパのジャーナリスト。彼は行き過ぎた米国型の株主資本主義を批判する。株主価値を上げることは企業の存続に必要なことであるが、それ自体を目的にしてしまうのはおかしい。企業の目的は利益を上げることそれ自体ではなく、その利益を使ってsomething more betterを行なうためではないか。法律は、えてして後手に回ってしまうことが多いから、環境問題などについては、企業自身が社会的な持続性の観点から率先して行動をしていくべきだ。決め手は、米国を代表する企業家、ヒューレット・パッカードの創業者であるDavid Packard の言葉。収益を上げることは企業活動の重要な結果だが、我々の本当の存在意義を理解するには、より深くいかなければならない。それは、我々が一人一人では実現できないことを、集合体として実現して、社会に貢献するためだ。米国資本主義を代表する企業の創業者の口から出た言葉となると、重みがある。 感覚としては、後者の議論をサポートしたいのだが、理論構成が必ずしも簡単ではない。フリードマン博士の堅固なロジックに対抗するにはきっちり考える必要がありそうだ。僕なりのargumentをクラスで披露してみた。 環境や雇用など、社会的な問題への対応は、もちろん第一義的には政府が責任を負うと考えるべき。しかし、現実には政府は遅すぎたり、十分な行動を取れていない。企業が長期的な利益を追求して行動していけば、ある均衡に達すると考えるのは、むしろナイーブではないか。ケインズの、「長期的には、我々は皆死んでいる」との言葉を思い出されたい。有限責任に始まり、税務面の優遇その他の経済的な補助を受けて、これだけ大きな社会的存在となった企業が、政府の失敗、市場の非効率を補うために、自らに与えられた力に見合うだけの責任を負うと考えることは、決しておかしくないのではないか。free marketsの原理を言い訳に、その責任を放棄しようとする考えに僕は賛成できない。別に、アメリカにある企業が、世界の貧困問題に対して責任を負うべきだというつもりはない。自分たちができる範囲でいい。それでも、できることをやろうとするべきではないか。株主利益の最大化と一つ覚えのように言い続けるのだったら、ここHBSに来て、このコースを学んだ意味がないのではないか? そもそもこの手の問題をはじめて意識したのは、HBS卒業生が書かれた本のなかで紹介されていた、GMのデトロイト工場閉鎖に関するケース。国際的な競争力の低下に伴い、GMは地元の工場を閉鎖せざるを得なそう。しかし、ここは同社が生まれ、育った地。地元の住民もほとんどがなんらかの形でGMのために働いている。彼らが出て行くとなったら、町全体が荒廃してしまう。企業のトップとして、どのような判断を下すべきか?MBA的な発想で言えば、プロジェクトのNPVを計算して、効果が高い方を選ぶだけのこと。いや、よりじっくり議論しても、長期的な持続性という観点からは、やはり工場閉鎖はやむをえないのかも知れない。しかし、本当にそれしかチョイスはないのか?僕は悩んだ。大学からの親友に言われて、心に残っている言葉。「世界を変えたいとか言う前に、俺は自分の身の回りのヒトを幸せにすることに励むよ。だから天下国家を論ずる前に、俺は奥さんを大事にしたいな」。世の中をよくしたいと言いながらも、自分たちを育み、支えてくれた地元の人たち(基本的には転職などの流動性は低いと考えるべき)すら幸せにできないのか?他方で、むやみにリストラを先延ばしすることが中長期的な利益に適うとも限らない。雇用はやはり政治の責任で、企業としてはかかる場合には工場を閉鎖し、社員に他の職業訓練を受ける機会を与え、転職を支援してあげるべきなのか? 日本にいるときは、リップルウッドという資本主義の権化(と思われることが多い)企業で働き、日本で十分に活用されずにいるヒト・モノ・カネの資産を効率的に運用するためには、株主資本主義という観点からのガバナンスを強化すべきだと声を大きくして訴えてきた。しかし、ここアメリカに来てみると、経営者の報酬、短期的な株価にとらわれた経営など、行き過ぎた株主資本主義のあり方に違和感を覚えざるを得ない。そして、クラスではむしろ日本・欧州のスタイルの、従業員・顧客・地域社会といった様々なステイクホルダーをより考慮した経営のスタイルのadvocateとして、しつこく発言をしている。なんかダイスケは手を上げるといつも、社会的責任とかうるさいな、それくらい思われているかもしれない。僕にそうさせてるのはきっと、自分に言い聞かせるためと、クラスメイトに "maximizing shareholder value" はunchallengableなdogmaではないということを、少しでも理解してもらいたいから。本当のところは、両者の中間地点くらいがよいのだろうか。日本では敵対的買収も存在しないんだぜ、そう得意気に語っていたのだが、その状況も少しずつ変わっているようだ。日本も欧州も、米国のよいところを吸収しつつ、上手にバランスを取れた資本主義のあり方を見つけられたらいいのだが。
by diwase
| 2005-02-16 11:00
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